弁証法的世界観 -3-

 

去年の11月頃、弁証法的世界観と題したブログを書いた。

その中で僕は「歳をとって感受性が鈍くなっていく。昔は辛く感じたことや大切だった思いが段々と薄れていく。」と言った。

それに対して、マユは「それは自分の湖が広がって海になったからだよ。昔は大きかったものが小さくなるのは、自分が広くなったからだよ」と言った。

上記2つの意見は結局は同じ事象を異なる側面から述べているに過ぎず本質は同じモノを点いており、どちらも間違ってないしどちらも正しいと思っていた。

 

―――

 

あれから半年が経って自分自身に少しの思想的発展があり、多少意見が変わった。それについて書きたい。

 

上記2つの意見をそもそもどちらが「正しい」かと考えると難しい。そもそも「正しさ」とは何か?

 

超要約するとプラトンは「正しさ」とは「美しい考え方」「健全なる魂」「徳に基づくモノ」であると言っているように僕には思える。例えば簡単に以下のような事。


・人に害を為すよりは害を為される方を選択する方が良い

→人に害を為す方が自分自身の魂を悪辣なもの(=不健康な状態)にする為

・欲望を満たすことよりも節制を心がける方が良い

→欲望には際限がなく、他人ものまで過剰に奪ってしまう為(=悪徳=不健康)

・物質的な豊かさよりも精神的な豊かさ(=知恵)を求める方が良い

→人生における過ちをなくし(=正しく生きる)、死後においても神々と豊かな生活を送る為

 

上記を踏まえると「正しい」とは「心の健康」「心が健康な状態」とも言えるのではないだろうか。

上記の僕とマユの2つの意見について心の健康という観点で捉えるのであれば、僕もマユの意見が正しいのではないかと思った。2つの意見は単に2つの事実か2つの論説と言うべきか。

 

そしてどんな意見も平たく並べてその人自身にとっては(僕自身ではなく)あれも良し、これも良しとしてしまう傾向が自分にあるのに気づいて反省した。自己完結ばかりで終わらせてばかりではダメだ。

 

―――

 

「正しい」考え方とは魅力的だ。

逆に悲しみを含んだ正しい「悪」もまた魅力的であると思う。

美しい殺人者は単に正しく息をしたかっただけなんでしょう?

正しく息をすることのどこが本人に取って「悪い」のか。

社会にとって「悪」であるだけだ。